題:不運 作:赤砂 多菜 ――――――――――――――――――――――――――――――――  風が渦を描いて巻き上がる。  地上数十メートルのビルの屋上。  空は夕焼けの赤と夜の黒がクラデーションを描き、後一時間もすれば、 地上は車の放つライトやビルの明かりによる光の海に包まれるだろう。  聞こえるのは風の音。  高い音はどことなく不安を誘う。 「ねぇ」  呼びかけたのは女。  フォーマルなスーツを着て、風に揺れる服の裾を押さえながら人懐っ こそうな笑みを浮かべている。 「飛び降りるとでも思った?」  そう言って立っているのはビルの縁。  フェンスも柵もなく、万が一転んだりしたら落ちてもおかしくないだ ろう。 「いや……」  彼女の言葉に答えたのは、随分と若い、いや幼いと言ってもいい位の 声だった。  屋上の出入り口のすぐ横にもたれかかってじっと彼女を見ている少年 がいる。  ジーンズに黒のTシャツ。目深に被った帽子のせいでその表情はとて も読み辛い。  いつからそこにいたのかは彼女も知らない。  気付いたらそこにいたのだ。 「キミはそんな人じゃないよ」 「そう?」  生意気な口調の少年に対してくすぐったそうに微笑んで、ビルの縁か ら一歩離れる。  そして、改めて少年の方に振り返る。 「何をしてるのかな?」 「私の事?」 「他に誰もいないよ」  少年の言う通りだった。  ここには誰もいない。 「そうね。誰も……いないのよね」  目を細めて、さっきまで立っていた方向を見る。 「ちょっとね……思い出していたの」 「何を?」 「昔を」  女は今度は空を見上げる。  夕方でも夜でもない空。  その瞳は遙か遠くを見ている。 「あいつに好きですって言った時もこんな空だったなぁ……」 「あなたの恋人の事?」 「そうよ」  上を向いたまま、視線だけを少年の方に向ける。  その横顔は微笑みながらもどこか寂しく悲しかった。 「……少なくとも私はそう思ってたわ」  突風が彼女の髪を巻き上げ、彼女は落ち着いた手つきでそれを押さえ ていく。 「愛とか恋とか興味ないって嘯いてて……ずっとそんな事に縁がなかっ たから……舞い上がってたわね。とても……」  再び視線を少年から空へ戻す。 「幸せだったわ。とても……」  その頬を一筋の涙が流れる。 「本当に好きだったんだね」 「あなたにはいるのかな、そんな人が」 「いるよ」 「その人もあなたを好きなの」 「そうさ」  少年は恥じらいも躊躇いもせずにそう返した。 「羨ましいな」 「何が?」  溜息が洩れた。 「私ね……不安だったの」 「………」 「あいつが別の女の人といるところを見てしまった時、自分が捨てられ るんじゃないかって不安になったの」 「キミはその人の事好きだったんでしょ? そしてその人も」 「……そうよ」 「だったら、何が不安なの?」 「……だって」  少年を真っ直ぐに見る彼女はもう泣いていなかった。  ただ、その表情はどこまでも悲しさに満ちた笑顔だった。 「私は5歳も年上で、何かにつけムキになる性格だし、取り立てて美人 って訳でもない……」 「その人はそれを不満に思ってたの?」 「……さぁ。考えすぎだったのかも知れない。でも、何もかもがうまく いきすぎていたから……それをなくす事がどうしても耐えられなかった の」  風が吹いた。  二人の間に流れる会話を吹き流していくように…… 「……聞いたの?」  しばらくの沈黙の後、少年が聞いた。 「何を?」 「その女の人とはどういう関係かって」 「まさか」  自嘲の笑みを浮かべて女は何かに耐えるように自分の両肩を抱いた。 「聞けないわよ。怖くて」  そして、女は屋上をゆっくりと見渡した。 「気付いたら……ここに立っていたの」  一巡りしてやがて歩きだした。  始めに立っていた場所、ビルの縁へ。 「フフッ、あなたの言う通りよ。聞けばよかったのにね。でも……あた し、馬鹿だから……だから」 「運がなかったのさ」  唐突な言葉。 「え?」 「運がなかった。……ただ、それだけだよ」 「……運…か」  彼女が呟いた瞬間、屋上の扉が開いた。  ハッと彼女はそちらを向いて、そして凍り付いた。  固い靴音を立てて、屋上へ上がって来たのはごく普通のサラリーマン と言った風の青年だった。  彼は一歩一歩、彼女に近づいていく。  距離が詰まるにつれて、彼女の体も表情も硬くなっていく。  そして、彼女の前を…… 「あ……」  まるで、誰もいないかのように彼はそこに膝をついて、手にしていた ものをコンクリートの地面に置く。  それは花束だった。  しばらく男は動かなかった。  そして、女も動かなかった。いや、動けなかった。  だが、彼が小さく何かを呟いた時、 「ごめんなさい……許して……」  耐えきれずに彼女は自分の顔を押さえて嗚咽を漏らした。  彼が呟いたのは……彼女の名前だったのだ。 ―――――――――――――――――――――――――――――――― 「運がなかっただけだよ」 「そう……かな」 「そうさ、キミはそんな人じゃない」 「こんな所にいたのに?」  泣きはらした顔で無理に笑顔を作りながら彼女は言う。  もう、花束を置いた青年はいない。 「ちょっとした行き違いなんて誰にでもある事だよ。それでブルーにな る事だってね。ただ……」  少年は彼女の横に並んだ。 「ただ……たまたま、その日は風が強かった。それだけなんだよ。キミ に死ぬ気なんてなかったんだ」 「そう……かな、ほんとに」 「そうさ、だからこそここに執着していたんだろ?」  女は名残惜しそうに空を見た。もうどこにも夕焼けの名残は見あたら ない。  大きな何かを振り切るように、彼女は溜息をついた。 「ごめんなさい。手間をとらせて」 「え?」 「……たぶん、あなたは死神か何かなんでしょう?」  女と少年の視線が重なり合う。 「どうして?」 「だって、誰にも見えないあたしが見えて……、あいつの目にもあなた が見えなかった。だからといって私と同じと言う風に見えないし……ね」 「死神とは違うけど……、でもキミにとっては同じ様なものだと思うよ」  少年は黙って女を見つめていたが……ぽつりと言った。 「……もう、いいの?」 「うん……未練はあるけど。……哀しいだけだから、ここにいても」 「そっか……」  少年は何もない虚空に手を伸ばした。何かを掴む仕草をするとその手 には一振りの刀が握られていた。  それを躊躇うことなく鞘から引き抜く。  黒い刃。それを女に向かって突きつけた。  女の顔に恐れはない。それが自分を解放する何かだと感じていたから。 「じゃぁ……ね。あなたは私のようにならないでね」 「うん、さようなら」  黒い刃が小さく震えた。  そして、まるで砂に描いた絵に水をかけたように一瞬で彼女の姿がか き消える。 「………」  少年は消えた女のいた空間を見つめ続けた。  消える最後の瞬間まで、女は寂しい微笑みを浮かべたままだった。 「運がなかった……ただ、それだけのはずだったのにね」  少年は刀を鞘に納めた。  金属同士のぶつかる高い音が鳴った。  そして、その音が消えた時には、そこには誰もいなかった。  ただ、屋上の縁に置かれた花束が風に揺られている、それだけだった。