「ここは……」  妙に黒光りする天井に、俺はここへ来て何度目かの呟きを漏らした。  いつものように周りを見渡す。  もう、あれからどれくらいたったろう。  だが、どれほど月日が流れようと消えない馴染めない空気。  異質感。  ふと、俺は自嘲の笑みを漏らしていた。  何を言っているのだ。その俺自身が異質なモノとなったというに… 「ウ…ア…」  低い呻き。  俺の傍らで寄り添うように寝入っていた女が、その猫のような縦長の瞳を薄く開く。 「ジロウ…エモン?」  まだ、意識がはっきりとしないようすで焦点の合わない瞳を俺の方に向ける。 「起こしたか? すまんな」  俺は彼女の方に手をやり、身体を引き寄せた。  白い裸体が俺の胸に倒れ込む。柔らかい双丘が温かな鼓動を俺に伝える。  まだ、幼いといっても良い身体。だが、俺をその身体で受け止めてくれる。俺を愛してくれる。  俺を欲っするこいつはまぎれもなく《女》だった。  そして、その《女》の為に俺は全てを捨てた。  そう文字どうり全てだ。  もはや、この身は人ではない。  鬼。  彼女達はエルクゥと己を呼んでいる。  遠く遠く空の彼方より降りた人を狩るモノ。  俺の目の前にいる女もそう。  そして、彼女の血を受けたこの俺も、彼女の同族へと変じた。 「恨んでいるのですか? わたしの事を」  辛そうにそう問いかけてくる。  もう眠気が消えたようで、声もはっきりしていた。  俺は無造作に彼女の髪に手をやった。 「ア…」 「下らない事を考えるな」  一度だけ、彼女が俺をこの鬼の集落から解放しようとしてくれた事があった。  鬼の血を疎み、自身を嫌悪する俺を見ていられなかったのだろう。  だが、去ろうとした俺は彼女の瞳を見た瞬間、凍りついた。  いつだか、彼女が言っていた事がある。  エルクゥ…鬼達は言葉を介さなくても意思が通じる時が在るらしい。  特に血が、あるいは心が近しきモノは特に。  そして、何度も彼女を抱いた俺の心は、彼女に近くなっていたらしい。  何の表情も見えない。だが、その瞳に決意があった。 「下らぬ事を考えるなぁぁぁっ!!」  吠えて、そして抱きしめた。折れるほどに。  …死ぬ気だったのだ。俺と別れた後。  元々、俺を同族にした事自体が、彼女達の掟では重罪だったのだ。鬼達の中では身分が高かった彼女には大した咎めはなかったらしいが、それでも周りから冷たい仕打ちを受け続けているのを俺は知っていた。そのうえ、俺を無断で解放したとあれば、無事では済むまい。  いや、それとて彼女にとっては大した事ではなかったのかも知れない。 「わたしの事は気にせずに……。でも、出来れば忘れないでいて下さい。愚かなオニの女の事を…」  俺か?! 俺なのか?!! なぜっ?! なぜっ?!!!  なぜなのだ!!!  なぜ俺なのだっ!!!!    俺は震えていた。  怖かった。自分自身が。  今、目の前に道が見える。  どちらかしか選べない。だが、どちらかを選べば、大切なものを失う。  永遠に…  そして、俺は選んだ。人を捨てる事を… 「エディフェル」  俺は彼女の名を呼んだ。  ついと彼女の顎に手をかける。 「俺はここにいる。お前のいるここに」  彼女はスッと瞳を細くする。  俺の首に彼女の細い腕が絡まる。 「愛している。ジロウエモン」  熱い吐息と共に、彼女がそう呟いた。 △▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼     鬼哭夜〜オニナクヨル〜 △▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼ 「さて、今日はどうするかな」  すでに日が真上に上がりつつある。  雨月山に在る鬼の集落をぶらつく俺に目的など何もない。  エディフェルは《務め》に出ている。  何をしているかは知らない。  どうも、役人(それも上の位の)のような仕事をしているらしい。詳しくは聞いていないし、聞いた所で理解出来まい。  俺も働こうにも、何をすればいいのか分からない。  そもそも、正直ここに働くという概念があるかどうか疑わしいと俺は思っている。  なぜなら、俺の見るかぎり、働いていると思わしき姿を見かけないからだ。  畑を耕す事もなく、衣服を繕うものもいない。  どきどき、奇妙な鉛のような箱を弄くっている者もいるが何のためかは良く分からない。  だが、それでも不思議と不自由はない。食べるものも着るものもちゃんとある。  何度かエディフェルに聞いた事があるが、理解出来ない言葉を返すのみだ。  鬼と化した今でも、全てを理解出来るという訳ではないらしい。  というわけで、俺は毎日のように漠然と集落をうろつくのみだ。  周りから、突き刺さる嫌悪と侮蔑の視線。  もう慣れたにしろ、あまり気持ちの良いものではない。  近づく事なく、見下す鬼達。  彼らにとって、人間は獲物なのだ。それが自分達と同等(少なくとも奴等の感覚ではそうらしい)に扱われるのが気に入らないようだ。  俺に与えられた家屋でエディフェルの帰りを待っていれば、こんな視線にさらされる事もなかろうが、それでは息が詰まる。  いっそ、集落から飛びだそうという誘惑に駆られる事もあるが、それは鬼達が許さないだろう。  元は人間だろうと今は同族だから…と、俺の助命を仲間達に請うた少数の鬼の意見はこの集落から出ない限りはという条件の下に認められたからだ。  何より、俺が無茶をすればエディフェルに迷惑がかかる。これ以上、彼女の負担を増やしたくなかった。  幸い、ほとんどの鬼は侮蔑の視線向けるだけで、手出しはしてこない。  …もっとも、人の世にはそのほとんどにあてはまらない連中がいるように、この鬼の集落も例外ではないらしい。  俺は集落の外れで足を止めた。  ここまで来ると鬼達の気配もほとんどない。  目の前にいる連中くらいなものだ。 「いい身分だね、何もせずにぶらぶらと…」  蓮っ葉な調子で鋭い視線をこちらへ向ける、若い鬼の女。  そして、彼女の周りを囲む、薄ら笑いを浮かべる鬼の若者達。  まるで、姉御とその取り巻きのチンピラを思わせる。 「何をすればいいか分からないし、どうせ何もさせてはくれまい?」  俺は溜息混じりにそう言った。  別に彼女に絡まれるのは今日に限った話ではない。  というか、エディフェルが側にいる時以外はいつもこうだ。  俺の落ち着いた調子が癇にさわるのか、カッとした調子で 「うるさいっ、あたしに話しかけるな!!」  向こうから話しかけてきたにも関わらず、矛盾した事を言い放つ。  そして、彼女の一喝に反応して取り巻きがとっさに身構える。  だが、俺はさほど、気にせず背を向けた。  彼女が取り巻きに決して号令を下す事はないと知っていたから。 「あ、コラッ、まてっ!」  慌てて引き止めようとするが、俺は取り合わない。 「エディフェルから、なるべく姉とだけは争わないでくれと言われているのでな」  そう、目の前の女はエディフェルの姉、アズエル。  はっきり言って、全然似ておらず、初めて姉妹だと聞いた時は驚いたものだ。  エディフェルが上品な飼い猫ならば、さしずめアズエルは野良猫と言った風だ。  もっとも、それは悪い意味ではない。  野性味、猛々しさ、エディフェルとはまた別の美しさがそこにあった。  クックック  あまりの違いに思わず、笑みがこぼれた。  だが、それがまずかった。  侮られたと勘違いしたのだろう。  ザッ  取り巻き達が俺を取り囲む。  空気が一気に険悪になる。 「あ、おいっ」  慌てて、アズエルが抑えようとする。  彼女にはあくまで俺を害する意思はない。そんな事をすれば、最愛の妹に嫌われるかも知れないから。  彼女は単に妹の心を独り占めする俺に嫉妬しているだけなのだから。  だが、取り巻き達は違う。  目を見れば分かる。チンピラといった風情でも、こやつ等は鬼。瞳に浮かぶ光は獲物を狙う獣のそれだ。  まずいな…  身構えつつ、心の奥で唸る。  俺は確かに鬼の力を手に入れた。  だが、それは同じ土俵に立てたというだけに過ぎない。  一度に複数に襲われれば分が悪いのは当然の事。  といって、おとなしくやられる訳にもいかない。  身構える俺を奴等はせせら笑う。  殺る…つもりだな。  アズエルと違って、こやつ等は俺を殺さぬ理由はとくにない。  きっかけさえあれば、俺を殺るのにためらいなどなかろう。  だが、俺にはおとなしく殺られるつもりはさらさらない。  カキッ…  俺はいつも持ち歩いている愛刀をいつでも抜けるように構えた。  鬼に対してそれはあまりに無力なのは承知していたが、鬼と化した今でも手放せずにいる。  それはかつて人だった事に対しての矜持だったのかも知れない。 「ふん、我らの力を得たといって調子にのってやがる」  小馬鹿にしたように鼻をならす、鬼達。  距離が少しずつつまっていく。 「おい、どうやってエディフェル様に取り入った?」 「…なに?」  取り巻きの一人の言葉に俺は眉を潜めた。 「あの方は男に免疫がないからな。さぞ貶めるのは容易かったろう?」 「だが、俺達はあの方のように浅はかではないからな。なにせ、一族の恥の証をここで親切にも消し去ろうってんだからな」  …こやつらは俺を嘲るのに夢中でアズエルの事すら眼中に入っていないのだろうか?  妹を侮辱した発言に瞳が怒りでギラギラと輝いている。  いまにも飛びかからんとしている彼女。  だが、それより俺がぼそりと漏らした言葉の方が早かった。 「もう一度、言ってみるがいい」 「あ?」  己の命を賭してまで、俺をここから解き放とうとした、あやつを愚かだと?  …ふざけるなっ!!!  俺はアズエルに向かって言った。 「こやつ等は俺の獲物だ。邪魔をするなよ」  気色ばむ取り巻き。  鬼共にとって、獲物呼ばわりは最大の侮辱だろう。  恐らく、俺は無事に済むまい。  だが、例え命を捨てる事になっても聞き逃せぬ事もある。 「個人的にはこのまま見物していたい所だがな」  俺でも奴等でもない声。 「あ…、ダリエリ様」  鬼を見かけで判断して良いかは分からなかったが、若者と言っていい鬼が俺達の間に悠然と割って入った。  アズエルが様呼ばわりする所を見ると、恐らくかなり位の高い鬼なのだろう。  風格が、奴等と天と地の差がある。 「…で? これはどういうことだ?」 「そ、それがその…この人間が…」  しどろもどろに言い逃れようとする。  だが、どうやらはなから弁解を聞くつもりはなかったようだ。 「この者が気にいらんか? かつて人間だったから? だがな、この者を同族として受け入れるという長の命が下され、主等も受け入れたはずだな?」 「は、はいっ」 「なにより、我もその者を同族として受け入れる事を望んだ一人。その時期長である我の意思を、今の長の命に逆らってまで踏みにじるか?」 「と、と、とんでもありません」  迫力のある酷薄な笑み。  俺は驚いていた。この突然あらわれた若い鬼が次代の鬼を統べる者であること。そして、俺の助命を請うた一人である事。  俺に絡んでいた連中はもはや表情に色がなかった。 「そうか? ならば…」  次の瞬間、落雷が落ちたような大音声が響いた。 「とっとと、この場から失せるがいいっっ!!!!」 「ヒッ」  脱兎のごとく、散りゆく。その姿は恐ろしげな鬼の風情はかけらもなかった。  その場に残ったのは俺とアズエル。そして、彼女がダリエリと呼んだ鬼。 「…済まぬな。助かった」  俺の礼に、ダリエリが肩をすくめる。 「礼を言われる筋合いはない。下らぬ連中だが、奴等も同族だ。次期の長として我には奴等を庇う義務がある」  …なに? 「逆ではないのか?」  聞き返した俺に、ダリエリは苦笑するように 「自身で気付いてないのか?」 「何をだ?」  首を傾げる俺に、再び苦笑するが答えは返ってこなかった。 「いつかは自分で気付くだろう」  とだけ言った。 「ダリエリ…様?」  恐る恐ると言った風なアズエルの呼びかけ。 「これにこりたら、下らぬ連中とつき合わぬ事だ。奴等はお前でなく、お前の地位に従っているだけなのを忘れるな」  グッ、とつまってしばらく肩をふるわせたが、やがて耐えきれなくなったのかクルッと背を向けて走っていった。  溜息を一つもらす。 「済まぬな」 「礼はいらぬと言ったぞ?」 「さっきの事ではない。俺の助命を請うてくれた事だ」 「ああ、その事か」  なんでもないことのように、 「例え元がなんであれ、強き同族が増える事を歓迎出来ないのは愚かな事だ。それに許嫁の妹を悲しませる訳にもいかんしな」 「許嫁?」  俺は思わず、アズエルが去った方を見やった。 「俺としてはあいつの方が好みだがな」  そう言って、同じ方向を見やる。  違うという事は、もう一人いるというの姉の方か。  一度だけ会った事がある。アズエルともエディフェルとも違った雰囲気を纏った女だった。孤高の狼を思わせる、思わず従いたくなる意思の強い瞳。  確か名は…、 「リズエルも良い女なのだがな」  そう言って、一歩二歩と離れていく。  だが、数歩も歩かないうちに足を止める。 「そうそう、これからは無闇に出歩かない事だ」 「俺に日の光を浴びるなと?」 「そうはいわんが。どうも、お主の存在は思ったより、同族達の癇に障るらしい。一部の馬鹿共達が結託してなにやら画策しているようでな。一応手を尽くすが首謀者がなかなか尻尾をださん」  再び歩みを進める。  背中越しの声が俺の耳に届く。 「だが、その首謀者をつるし上げればいい見せしめになる。他の奴等もおとなしくなるだろう。せめてそれまではおとなしくしていろ。そうすれば、エディフェルにいらぬ心配をかけずに済む」  去りゆく背を見つめながら、俺の胸には何かいらだたしさが募った。  ヒュンッ  思わず、鞘から引き抜いた刀を一閃する。  何度も、何度も  気付けば全身汗だくになり、疲労の溜まった体は自然と大地へと大の字に倒れ込んだ。  どれくらい、そうしていたろうか…  フッ、と俺の視界が陰った。 「エディフェル…」  彼女から乾いた手ぬぐいを受け取った。 「もういいのか?」 「………」  だが、彼女は何も答えず俺のすぐ横に腰をおろす。  そっと、俺の首筋に手を触れる。 「?」  何か様子が変だ。 「どうした?」 「…ダリエリ様から聞きました」  人間だったころの俺は、鬼というと凶暴一辺倒だと思っていたが。  どうやら、現実は違うらしい。  おせっかいな鬼というのも実在したようだ。  エディフェルは顔を伏せて、 「…すみません」 「………」 「…わたしのせい、っえ?」  トサッ  腕をつかんで引っ張る。体の支えを失って彼女は俺の胸に倒れる。 「二度と言うな。俺がここにいるのは誰でもない、俺の意思だ」 「でもっ」  腕の中の柔らかな感触。  俺はこれの為に人であることを捨てた。  後悔?  今ならば笑いとばせる。  おそらく、これからも何度も悔やむだろう。だが、エディフェルを失う事に比べればどれほどの事であろう。  俺は片手を彼女の背中から肩に回し、そして、残ったもう片方を衣服隙間から潜り込ませる。 「! ジ、ジロウエモンッ!!」  慌てて俺から離れようとするが、肩に回した俺の腕が邪魔でそれは叶わない。 「誰もいやしない」 「で、でも、…アッ、ウンッ……」  後は言葉にならず、ただ熱い吐息を漏らすのみだった。     あるいは、     気付くべきだったか?     遠くから俺達を刺す視線に     そうすれば、悲劇はさけられたやも知れぬ _____________ 「くそうっ」  彼女の一撃で様々なものがその形を失っていく。  アズエルの胸は荒れ狂っていた。  ダリエリに醜態を見せた。ただ、その一点がとてつもなく痛かった。  強く、賢く、まさに長となるべく生まれたかのような男。今の衰えた長に変わって実質的に鬼達を統べているのは彼だ。  頬を一筋の涙が伝う。  彼女はダリエリに恋していた。  だが、彼は将来姉の夫となる事がすでに決まっている。  どうしようもない事。誰にもどうにも出来ないこと。  そのはずだった。  だが、エディフェルはどうだ?  本来、ありえるはずのない人を同族として迎え入れる事を成功させたではないか。それもダリエリにも認められた存在。  事あるごとに絡んでいたのは、妹をとられたせいでも、元人であったせいでもない。  憎かった。  どうしようもない事を可能にした男が、最愛の人に認められた存在が。  許せなかった。  そして、惨めだった。  変える事の出来ない現実にいる自分が。 「アズエル?」  背後から聞き慣れた声。 「…リズエル」  目元をこすりつつ振り向く。  そこにたたずんでいたのは、彼女達姉妹の姉だった。 「これは?」 「ああ、ちょっと苛々してたからね」 「物にあたるのは、やめて欲しいわね。《狩り》にでもでかければいいことじゃない」 「そんな気分じゃないから…」  そして、ふと眉をひそめる。 「で、どうしたの? 何か用?」  この姉が予定もなく訪ねてくるのは珍しかった。  いつもなら、先触れ位よこすはずだが… 「あの男とやりあったそうね」  …その話か……  アズエルは内心ほぞをかんだ。 「ダリエリ様から?」 「彼はそんな事を話たりしないわ」  少し寂しそうに言って、すぐに元の表情に戻る。 「あの男をどう思う?」 「どうって……」  戸惑う。 「急に言われても。じゃぁ、姉上は?」 「邪魔ね」  即答だった。まるで切って捨てるように。 「え?」 「我ら、栄えあるエルクゥの一族にあるまじき者…。違う?」 「そ、そりゃあたしもそう思うけど」  何が言いたいのかアズエルは理解出来なかった。 「でも、どうしようもない。エディフェルはあの男を愛している。手を出す訳にもいかないじゃない」 「あの子は、過ちを犯している。それを正す事は間違っている?」  不穏な気配。  アズエルの喉が急速に乾いていく。 「何を考えてるの、リズエル。あの男を同族として迎え入れるのは長の決定だよ」 「そうね」  長い髪をすっと掻き上げて、リズエル。 「ここから出ない限りは……ね」 「!」 「どうする?」 「え?」  リズエルがスッと手を差し出す。  しばらく、動けなかった。  ふと、脳裏に先程の光景が浮かぶ。  男とダリエリが親しそうに言葉を交わしていた。  震える手がリズエルの手を取った。 _____________ 「!」  手にしていた湯飲み(のようなもの)が割れた。  とっさに力を込めてしまったのだ。 「…な、に?」  手のひらを額にあてて俺は意識を集中する。 (エディフェル! おいっ!)  必死に彼女の意識に問いかける。が、返事はない。  なにがあった?!  《務め》に出ているはずの彼女から届いた、心の悲鳴。  それは確かに集落の外からだ。  エディフェルも鬼の一族の女。滅多な事はあるはずないんだが…  俺は愛刀を手にする。  集落の外、出れば鬼達は俺を許すだろうか?  俺は一瞬の躊躇もなく家屋から飛び出す。  エディフェルに何事もなくば、すぐに戻ればいいのだ。誰も気付くまい。  そして、彼女が危機に陥っているならば、動かずにどうするのだ。  ザムッ  俺は地を力の限り蹴りつける。  鬼と化した俺の疾風とかし、大地を駆ける。  山の果て、木々が途切れ乾いた大地。もう人の村が目に見える距離にある。  そこで、俺を待っていたのは… 「何のマネだ、これは…」  恐らく、意識を失っているだろうエディフェル。  そして、見覚えのない鬼共。  ただ、一つだけ見知った顔があった。 「アズエル…」  硬い表情で俺を見返す。 「これであんたはあそこから出ないという約束を破った。偶然、それを見つけたあたし達があんたを狩っても誰も文句を言えやしない」 「誰にそそのかされた?」 「………」 「今まで機会はいくらでもあったはずだ。なぜ、今になってこんな事をしでかす?」 「話す必要はないよ」 「………」 「………」  彼女の無言の合図に鬼共が一歩々々距離を詰める。  俺は愛刀を引き抜く。  躊躇はない。  俺の行動の結果がどうなろうとも、黙って殺される訳にはいかなかった。  エディフェルが俺の全て。  俺は彼女の為に人を捨てたのだ。彼女の為だけに生きているのだ。  断じて、こやつ等に殺される為ではないっ! 「ウォォォォォォォ!!!!!!!」  力が漲る。弾けるほどに。 「グガァァァァ!!」 「シャァァァァ!!」  そして、解き放たれたように鬼共も俺に襲いかかって来た。 _____________ 「まさか、そんなはずはあるまいと…思っていたんだがな」  怒りも落胆もなく、ただただ呆れたようにダリエリは漏らした。  彼の前にたつ女はリズエル。 「よりによって、裏で馬鹿共をそそのかしていたのがお前だったとは…、以外過ぎて正直なんと言っていいかわからんぞ」 「正直に…というなら愚か者と言ったらどうです?」 「愚か者か…、違うな。お前は考えすぎるのだ、考え無しが良いとはいわんがアズエルを少しは見習うがいい」  クスッとリズエルは嗤う。 「アズエル…ですか。そうですね、彼女を真似れば少し私を見てもらえるのかしら。あなたが好きな彼女を真似れば…」 「………」 「でも、彼女はあの人間を殺すわ。あなたの好きな女が、あなたが認めたあの人間を」  クスクスと…それは病的な笑いだった。 「その為に…か、下らぬ事を」  吐き捨てるようにダリエリ。 (それだけじゃない)  心の中でリズエルは続けた。  彼女は見ていた。集落の外れで次郎衛門と愛し合う様を。  羨ましかった、妬ましかった。  血の繋がった妹。  一族の掟で、妹を想う男と添い遂げる事を定められた自分に比べてなんと恵まれた事だろう。  それは認められない。姉妹なのだから少しは公平に苦しんでもよいではないか。  彼女はまだ気付いていない。自分の理性が歪みつつあるのを。  ガタッ! 「!」  ダリエリが不意に身構えた。  リズエルが咄嗟に体を震わせたからだ。 「おい?」 「どうしたのっ?!  アズエルっ!」  アズエルが心の声を飛ばしていると察して、リズエルを問いただそうとする。  だが、それは叶わなかった。それより先にリズエルがその場を飛び出したからだ。 「チッ!」  舌打ちしてダリエリが後を追う。 (何があった?!)  リズエルの慌てよう、尋常ではない。  あるいは次郎衛門を仕留めそこねたのだろうか?  違う、それならばそこまで慌てないだろう。  沸き上がる疑問を振り払い、真っ直ぐ集落の外へ飛ぶように走る彼女を追いかけた。 _____________  ドサッ  切り落とした腕が地面に落ちる。  悲鳴を上げさせる間も与えぬつもりで、返す刀を首にたたき付ける。  たやくす、首が飛ぶ。  残るは…、  俺は視線を巡らした。  アズエルを除いて…二人。 「こ、こんな…」  アズエルが呆然と呟く。  だが、正直俺自身も驚いていた。  十人近くいた鬼。  だが、それを俺の力が圧倒していた。  動きが見える。反応出来る。力を受け止められる。攻撃が確実に効いている。  かつての人間だった頃の俺の無力さを忘れさせるほどの。  俺も無傷ではなかったが、致命傷と呼べるほどのものではない。 (自身で気付いてないのか?)  あの時のダリエリの言葉。  そうか、このことだったのか。  奴は気付いていたのだ。俺が並の鬼とは比べものにならないほど圧倒的な力を持っている事を。 「シャァァァァッ!!」  残った二人の内、一人が細い鉄棒のようなものを振り下ろす。一見貧弱な武器に見えるが、かすっただけで岩が粉々に砕ける恐るべき妖術紛いの兵器だ。  よけるべきだろう。だが、俺は確信を持って、刀で迎える。  ガキッ!  鬼の馬鹿なっ、という表情。俺の腕には凄まじいまでの衝撃が走った、まるで巨大な金槌で殴られたようだ。  だが、それは細い刃に完全に止められていた。  本当なら、あっさりと折れて、鉄棒は俺を直撃したろう。 「ハァァァァァ」  俺は気合いを込めて、押し返す。  俺の内を駆け巡る凄まじき力が、腕を通して刀に流れ込む。  チンッ  澄んだ音がした。  そして、同時に切断された鉄棒が地面に落下し、その持ち主は血を吹き散らして地面に伏した。 「!」  その仲間の屍を飛び越えて襲ってくる最後の鬼。  意表をついた攻撃。  だが、俺は慌てず、間合いの外側にも関わらず、素振りの如く、的に向かって刀を振る。  シュバッ  刀から放たれた力は不可視の刃と化し、一直線に俺に向かってきた敵を切断した。 「そ、そんな馬鹿な…」  アズエルが震えている。彼女にとっては悪夢だろう。  俺は今や、鬼の力を完全に把握していた。いや、それどころか本物の鬼達以上に、その潜在能力を使いこなしていた。  俺はアズエルの方を向いた。  ビクッと彼女は身構えるが、その目にはもはや戦意は残っていない。  終わったな…  溜息を一つつく。  そして、俺はアズエルから視線をはずして、エディフェルの方を向く。 「…っ、ここは?」  丁度、彼女が目を覚ますところだった。  俺は彼女に手を貸すべく、彼女の方へ歩みよろうとした。  だが… 「こ、これはっ??!」  驚愕の声。  振り向けば見たことのある顔が並んでいた。  リズエルとダリエリ。 (面倒な事になるやもな)  己の身を守る為とはいえ、何人も殺したのだ。ただで済ますとは思えない。  俺はうんざりした気分だった。  ふと、違和感を感じる。  …嫌な予感がした。 「!!」  俺の視界からアズエルが消えていたのだ。  低い気合い。  ちっ!  まだ、やる気かっ?!  仕方ない、なるべく加減してあしらうか。  それが出来るだけの力の差が今の俺にはある…はずだった。  だが、彼女の攻撃に対応しようとして、脇腹に激痛が走る。 「ぐっ!」  チッ、そうだ。俺も無傷ではなかったのだ。  気を散らしたのは一瞬。  …だが、その一瞬が殺し合いにおいては容易に死を呼ぶ。  そして、全てに置いて驚異的な能力を持つ鬼には致命傷と変わりないのだ。  体勢を整える間もなく、アズエルの刃のように鋭い爪が迫る。  クッ!  間に合わんっ!!!  いかに力の差があるといっても、こんな無防備な状態で鬼の攻撃を受ければ、アズエルが女だろうと恐らく助かるまいっ。  俺は咄嗟に身を固くした。  こうなれば、アズエルが急所を外してくれるのを祈るしかない。  人を捨てた俺の願いが御仏に届くか怪しいものだがなっ。  ザスッ  肉を貫く嫌な音がした。  ポタッ …ポタッ  恐らくは血が地面に落ちる音だろう。  どうやら、アズエルは急所を外してくれたようだ。痛みも何もない…  いや、まて、何もない?  …ポタッ、ポタッ  なぜだ。ならこの音はいったい…  そして、俺はようやく現実を認識した。 「エディ…フェル?」  俺の前に立ちつくす彼女。  その背がゆっくりとゆっくりと俺の方へと倒れていく。  慌てて抱きかかえる。  ヌルッ  なま暖かい感触。  俺は片手で彼女を抱えながら、震えを抑えるよう努力してもう片方の手を見る。  赤く赤く…  ふと見ると、同じ色に染まったアズエルの両手。彼女の表情は、その手とは反対に真っ白になっている。  これはなんだ? 「なぜ……」  リズエルの虚ろな声が聞こえる。 「なぜ…なの。その人間が死ぬのよ。なのに、なぜあなたが…。その人間だけが死ぬはず…」 そうか… 「…貴様がこやつ等を指揮していたのだな?」  ギシッ  刀を強く握りすぎたせいで柄が軋む。  その手に白い手が重なる。 「エディフェル!」 「リズエル…を、恨まないで」 「………」 「全て、わたしが悪かったから」  そんな事はない、と俺は言いたかった。  だが、言葉が出なかった。  エディフェルの体からぬくもりが消えていく。  大切な、本当に大切なものを俺は失いつつあった。  失う?  失う?! 「そんな顔をしないで、ジロウエモン」  そう言って、血の気を失ったエディフェルの弱々しい微笑みは、悲しい位美しかった。  どれだけ、時間が経ったろうか。  すでに俺の腕の中のエディフェルは冷たい亡骸と化していた。  少しずつ、少しずつ胸の奥に熱くどろどろとした何かが揺れ始めていた。  涙はかれ果て、ただ悲しみだけが流れ続けている。  俺はエディフェルの亡骸を抱えたまま、歩き出した。 「ま、まてっ、どこへ行く?!」  アズエルの…いや、エディフェルを殺した鬼共の声が聞こえたが、俺は無視した。 「な、何故止めるのっ、リズエル?!」  首だけで振り向くと、今にも飛びかかって来そうなアズエルと、それを片手を上げて制するリズエル。 「鬼共よ…」  俺は身の内を焼き尽くす憎悪と共に呪いの言葉を吐き捨てた。 「貴様等が、真実鬼かどうかは知らん。だが、これより俺は真の鬼となりて貴様等を討ち滅ぼしてくれる…」  それだけ、言って俺はまた前を向いた。  襲い来るかと思ったが、背からはその気配はない。 「忘れるな…、貴様等を滅ぼすのは俺だ…」  俺は歩き続けた。  背後にはもう、鬼共の気配はなかったが気にもならなかった。  月が綺麗な夜だった。  俺は柏の木を背に座りこんでいた。  雨月山から麓に降りた俺は、小さな寺にエディフェルの埋葬を頼んだ。  住職は俺の表情から何かを察してくれたようで、何も聞かずに手厚く弔う事を約束してくれ、そして行くところがなければここに滞在してもいいといってくれた。  特に断る理由もなかった。それにここならば、エディフェルのそばにいてやれる。  そして、俺は毎日何をするでなく、こうして夜毎月と星を眺めるだけで過ごしている。  俺は鬼共に言った言葉を思い返した。 (忘れるな…、貴様等を滅ぼすのは俺だ…)  それがどうなる?  エディフェルは死んだのだ。  奴等を皆殺しにしても、もうエディフェルは…愛しい女は還ってこないのだ。  俺はひざまずいて、両手を地面にたたきつけた。 「くっそうぅぅ、くそぅぅぅぅ、くそぉぉぉうぅぅっぅぅ」  涙が滲み、手がすりむけるのも気付かず土をつかんで投げ捨てた。 「あああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!」  吠えた、吠えた。  喉が裂けても良かった。  月が綺麗な夜だった。  そうだ、エディフェルと出会った夜もこうだったな、と  吠えながら、心のどこかで彼女の想い出を抱きしめつつ呟く俺がいた。  いつか、俺が死して土に帰る時、彼女の魂が俺を迎えてくれること。  それが、今の俺のたった一つの願いだった。